「ご飯をいただく」ことの感謝に気づく、托鉢(たくはつ)の体験

前回、「 食を通じて人が集う家」という記事を投稿させていただきました、NPO街のひろばの松浦と申します。

食めぐメンバーになりたての私ですが、昨年秋に食めぐ交流会に参加させていただき、色々な方にお会いすることができたことがきっかけで、食育のことをもっと知りたいと思うようになりました。

食めぐ交流会

その中で中心的な役割をしている、食めぐさんのオープンな雰囲気も印象深かったです。「食を通じて、誰にでも開かれた発信の場を作ろう」というコンセプトの通り、様々なバックグラウンドを持つ方がこの場に集っていることに刺激を受けて帰って来ました。

そんな訳で、自分の経験も、誰かにとって何かのプラスになるのであればと思い、これからも記事を書き続けてみようと思う次第です。

家々を回り、ご飯を与えていただく「托鉢(たくはつ)」という修行

今回は、僕が過去に経験した「食」の経験の中で、前回に続きもう1つ、印象に残っている托鉢(たくはつ)の体験について書いてみようと思います。

2011年の夏前のことなのですが、タイの田舎のお寺に1週間くらい滞在させていたただいたことがありました。

僕はどの宗教にも属していませんが、10年ほど前、初めてタイに行った時に、バンコクの街中にたくさんのお寺があり、黄色い袈裟を着たお坊さんが普通に街中を歩いていることに感銘を受け、タイの仏教に興味を持つようになっていました。

そして、前回の記事で書いた、ミラ会という食の集いで知り合った方の縁で、タイで出家した日本人のお坊さんを紹介していただき、友人が訪れるタイミングに便乗して同行させてもらったのでした。

この日本人のお坊さんがいらっしゃるお寺は、タイ東北のイサーン地方のチャイヤプーム県という場所にあります。イサーンは、タイの中でも最も田舎と言われるエリアですので、観光で訪れる方は少ないかもしれません。朝早くバンコクを発ち、高速バスに半日揺られ、さらにソンテウ(下の写真)と呼ばれる、トラックの荷台を改造した小さなバスに1時間ほど揺られ、山の中にあるお寺まで行きました。

ソンテウからの風景

タイでは、リトリートと呼ばれる一時出家のような活動が一般的にあり、そこに滞在する期間は合宿のような形で仏教の教えや瞑想(最近はマインドフルネスとも呼ばれています)などの指導を受けることができます。僕らが滞在した時は、近くの県にある病院の職員さん達の団体がリトリートに参加していて、まるで林間学校のような雰囲気がありました。

お寺の外観

お寺は、最低限の電気はありますが、基本的には全て自然のままです。シャワーの替わりに水浴びをし、蚊取りマットの代わりに蚊帳の中で眠り、トイレも、ポリバケツに入った水と簡易的な便座があるのみで、トイレットペーパーなどはありません。お寺と言っても、敷地は山奥の森ですので、時期によっては蛇やサソリなども出るそうです。また、仏教の戒律で、昼以降は食事をしてはいけないため、食事は朝と昼の1日2食だけで過ごしました。

お寺の宿泊所

僕達はそこで、日本人のお坊さんに瞑想の指導を受けたり、各々の悩み事を聞いて頂いたりしながら1日を過ごしました。

このように書くと、まさに修行のような生活をイメージするかもしれませんが、実際はほぼ自由行動でした。食事も、お腹が空いたらお寺の外の売店で軽く食べても良いよと言われていましたし、日中は昼寝をしたり、近所の村を散歩したりもOKでした。

その中の活動の1つである托鉢というのは、早朝、お坊さんたちが信者の家々を周り、ご飯を恵んでもらう修行のことです。お坊さんたちは、ご飯を恵んでもらう代わりにお経を唱え、その家の幸福を願うお経を唱えることで「施しのお返し」をします。頂いたご飯は、お寺に戻り、一度食堂に預けた後に、係の方が仕分けをしてくださり、その日の朝ご飯として頂きます。

ルアンパバーンの托鉢

托鉢と言えば、世界遺産に登録されているラオスのルアンパバーンという街(上の写真)が有名なのですが、これは食事を提供する側として参加するものです。僕たちは村人から「ご飯を分け与えていただく側」として参加させて頂いたのでした。

タイのお寺は朝がとても早く、朝4時にお堂に集まり、皆で読経をし、説法を聞いた後の5時半から、1時間ほど掛けて近隣の村に托鉢に回ります。

早朝の風景

それぞれのお坊さんのグループごとにルートが決まっており、僕達は、お寺近くの集落を回り、次第に家々の少ない村外れまでを巡ってお寺に戻ってくるという道順でした。

まだ日が昇り始めて間もない時間にも関わらず、家々には炊き立てのご飯や手作りのおかずが用意されています。お坊さん達は決まった家を周り、村人達の差し出すご飯を受け取り、自らの鉢にそれらを入れた後、短い読経を唱え、次の家へと向かいます。

その間、村人も、お坊さん達も、挨拶や雑談などはありません。
お坊さんがやってくると、大人も子供も自然に家の前に整列して、静かに食事を差し出した後に、お坊さんたちの読経を聞き入ります。

そうした村人たちの行いの1つ1つが、僧侶への敬意の表れであり、その村の「日常」なのだと感じました。

近隣の村の風景

ご飯を頂いた後に唱える、感謝のお経

印象に残っているのが、その際に唱えるお坊さん達のお経です。
タイのお坊さん達が唱えるお経は、パーリ語と呼ばれるインドの古い言語なので、意味は定かでは無いのですが、渡航前に読んだ、そのお坊さんの著作に日本語訳が載っているため、頭の中で言葉の意味を思い出しながら、僕も一緒に手を合わせました。

それは、こんな一節です。

“川を満たした水が流れ行き
そこに豊かな海を生じさせるように
あなたより捧げられた施しは
既にこの世を去った人たちにも送られますように。

あなたが望みし願いが
速やかに成就されますように。

その想いのすべてが
十五夜の満月のように、光り輝く宝石のように
喜びの光に満たされますように。”

(プラユキ・ナラテボー氏著『「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語』より、随喜発勤偈の誦文から一部抜粋)

あれから10年近い歳月が過ぎましたが、今でもこの托鉢の風景は忘れることはありません。

朝日に照らされた村々の美しい景色と共に、この滞在で得た様々な経験が、当時、様々な悩みを抱えていた自分の心を蘇えらせ、その後の自分を作ってくれたと言っても過言ではありません。

僕にとっての食育(美味しさプラス”の”こだわり”)とは?

それ以降日本でも、ご飯を振舞っていただく機会があれば、この托鉢の風景を思い出し、心の中で小さく、お祈りの言葉を唱えている自分がいます。しかし年月が経つごとに、「ご飯をいただく」ということを、再び当たり前に感じ始めてしまっている自分もいて、反省する日々です。

小さい頃、僕自身がひどい偏食家だったからというのもありますが、僕にとって、食育とは?と考えた時に、飽食と呼ばれるこの時代だからこそ、ご飯を作ってくださる方への感謝というものが、やりたいテーマの1つとしてあるように思います。

同時に、今の仕事に繋がることとして、自分が受けた施し(頂いた恵み)を、他の人とも分かち合って行くという考えは、この托鉢の体験を通じて知ったお祈りの言葉から生まれたものだと思っています。

今年こそ、食育に関わる具体的な活動が始められることを目標にして、食めぐさんをきっかけに、更なるご縁が生まれることも楽しみにしております!

お寺の風景

(注:本稿では記事の趣旨(食育というテーマ)を第一とし、ご指導いただいたお坊さんやお寺などの固有名詞は記載せずに書かせて頂きましたが、お会いさせていただいたお坊さんは、日本での著作も多数ある、プラユキ・ナラテボーさん(本名:坂本秀幸さん)という方です。氏の在籍するお寺の生活や、そこでの教えについての詳しくは、著作に詳しく紹介されていますが、本稿の内容に問題がある場合は、記事のコメント欄にてお教え頂ければ幸いです。)

職業:教育
資格:その他
好きな料理、食べ物:麻婆豆腐・杏仁豆腐・揚げ出し豆腐・冷奴
スケボーと料理の習得が2020年の目標です。笑
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コメント(4)

  1. まつかさん

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    2020年1月13日

    とても興味深く、素敵な投稿です☆

    いつもいただいている食材1つ1つに命があり、
    私たちは生かされているのだと改めて思い知らされました

    また野菜やお肉を育ててくださっている方々の
    多大な苦労や努力があって普段の食卓には料理が並び、
    自分一人で得たものなどこれっぽっちも無く、
    直接的に顔は見えないけれど、たくさんの周りの方々に支えられて
    自分はいるのだと痛感しました

    こういった現実を省みると、我々1人1人が『食』や『食育』について知見を深め、
    真剣に向き合っていくことが、これからの世の中に必要なものなのだと
    強く考えさせられました。

  2. 瓦林花菜さん

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    2020年1月13日

    托鉢という言葉を初めてお伺いしたので
    とても興味深いお話でした。

    特に自分が受けた施し(頂いた恵み)を、他のひとととに分かち合っていく。が1番心に残りました。

    今は飽食の時代だからこそ、一つ一つの食材やまたはご飯を作ってくださる方への感謝を忘れずに私も行動していきたいです。

  3. 金子典世さん

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    2020年1月14日

    托鉢、初めて聞きました。
    普段何気ない1食1食に対しても、改めて感謝の気持ちを持って食べようと思います。
    日本で昔からある「いただきます」という言葉も、これからより大事にしていかなければいけないと思いました。
    自分たちの子供世代にも、食べ物に感謝をする気持ちを教えていきたいです。

  4. 松浦康介さん

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    2020年1月19日

    こんなに沢山コメントを頂いているなんて…驚きです。

    皆さまお返事遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。
    そしてこんなにご丁寧にお読みくださって、本当にありがとうございます!

    > まつかさん

    本当におっしゃる通りですね。ご飯を作ってくださる方だけでなく、その食材を精魂込めて作ってくださる方、命を分け与えてくれる生き物、托鉢というのは、そうして命を分け与えてくれる全ての方に、幸せが循環していくことをに気付く、という営みなのかなと思います。タイの仏教は、信仰というより学問みたいなものなので、色々と気づかせてもらうことが多くありました。

    まつかさんのコメントも、改めて托鉢を通じて食という営みを見直す機会になりました!

    > 瓦林花菜さん

    コメントありがとうございます。文章の構成上省いてしまいましたが、私もこのお経の一節で一番感銘を受けたのが、自分の受けた恵みを他へと(この世を去った人にさえも)分かち合っていく、という考え方が素敵だなと思ったからなんです。

    そんな風に思えるようになると、日ごろのちょっとした憂いごとも、大したこと無いと思えるようになるという意味でも(笑)この文にはよく助けられていました。(^^)

    > 金子典世さん

    コメントありがとうございます!
    「いただきます」という言葉、私も何気なく使っていますが、きっと根本にはより広い意味での感謝が込められているような気が致しますね。いつか子供達にそんなことを伝えられるようになるためにも、私も一回の食事に対して、丁寧にいただき、感謝できる人になりたいなぁと思います。